はるか昔、古代ギリシャの時代。
まだ学校という制度が存在しなかった時のお話。
子供たちは自分が大人になってから糧を得るための技術を磨くため、日々勉強をしていました。
どのように勉強していたかと言うと、自分がやりたい仕事の分野で各自が好きな職人の所に出向き、教えを請うていました。
製鉄技術、武器職人、石職人、剣術の達人や靴職人など、とにかくジャンルはさまざまです。
そこで子供に技術を教える人を「先生」と呼びました。
子供たちはそれぞれが自分が目指していた職人になるため、それはそれは一生懸命に学び、そのスキルを身につけて行きました。
この時代の話はいったんここで終わりです。
話を現代に戻しましょう。
今では学校という制度があり、そこに先生というものが集まっていて、子供たちはそこに授業を受けに行きます。
授業内容も既にパッケージングされており非常に効率的で、古代の人から見たら羨ましい限りの環境だと思います。
ところが現代人は中々勉強に身が入らず、将来やりたい事も見つからない人が沢山です。
やがて学生時代卒業間近になると「働かないといけないから」と、ひとまず給料や自宅から近いといった条件で働ける所をひた探し、その後特に興味もない仕事で定年まで地獄の苦痛を味わう。
こういった方は少なくないです。
良くないケースでは学校や職場などに馴染めずに引きこもってしまったり、もっと最悪な場合には将来に絶望を感じて自ら命を絶ってしまったりする人も居ます。
さて、古代と現代についてお話しました。
ご覧の通り、現代のほうが学校という制度や、先生が最初から集まっていて非常に効率的に勉強できる環境が整っています。
それなのに現代では身が入らないどころか、自ら命を絶ってしまう人まで現れてしまうのは何故でしょうか???
ここで、古代と現代の大きな2つの違いを見つけてみましょう。
古代では生徒自らが好きな教師の所に出向いて勉強するという、能動的な行動に対し、
現代では子供視点では学校に行かされて勉強させられる、という受動的になっているということ。
実はこのやるか、やらされるか、能動的・受動的という違いは身の入り方に月とスッポンの差があります。
たとえば皆さん趣味の分野や好きな事はわざわざ教わらなくても、自分で調べるなり覚えるなりで勝手に上達しますよね?
逆に興味ない事はわざわざ調べようともしませんし、目に入った所で頭は覚えるモードになりません。それらを覚えるのは苦痛でしかないと思います。
こんなんで勉強が楽しく感じるはずがありません。
古代では、自分がやりたい事に対しその先生となる所に出向き勉強していました。
現代では先生の所に出向き勉強してから、やりたい事や仕事を探すようになっています。
つまりやりたい事が先か、ひとまず勉強が先か、という違いですが、この差も大変大きく、
やらされ感で日々受動的に授業を受けているだけではやりたい事が見つからないのは当たり前です。
古代ギリシャの話からもわかるように、本来、勉強というものは自分にとって必要な事を学ぶ行動の事であり、先に情報を入れてもそれは自分にとって必要かどうかなど分からないので、覚えにくい、覚わらない、楽しくないのは自然な事なのです。
ではどうすればいいのか、
それにはできるだけ早い段階で好きなもの、興味ある事を見つける、これが本当に重要なのです。
「早い段階とはいつか」ですが、できれば高1まであたりが理想だと考えます。
なぜなら高校では文系・理系という大きな分かれ道が来ます。
この時までにやりたい事・目指したいもの・興味ある事がないと、自分の意思外(テストの点数や親の意向など)で方向を決めることになってしまい、その先も就職まで同じ流れが続きやすくなってしまします。(困ったら理系がオススメですが)
そうなると勉強も仕事も途端につまらなくなってしまい、最終的には苦痛に感じてしまいます。
長々と書いてきましたが、そうならないために大切なことは、
子供の頃に色々なものを見たり体験したりして、好きなもの・興味あるものをできるだけたくさん見つける
これがまさに能動的に楽しく学べる準備が整う、勉強の本質に沿って学べる、という事になります。
あとは好きこそ物の上手なれ、で好きな分野はわざわざ塾に行かなくても勝手に伸びます。